故郷の風景画
小学校入学式
中学校卒業記念写真
新校舎玄関
中学卒業
小学校入学前の記念写真
私の誕生
中学校卒業の記念写真です。
入学のときと同じ場所ですが背景が違っています。ということは私が在学中に新築されています。新築された中に視聴覚教室も玄関すぐ横にありました。
卒業生男子24名、女子13名はそれぞれ就職、進学と分かれていきました。
私は昭和21年、山口県阿武郡紫福村(現:萩市)に生まれました。
父は郵便局員、母は農業兼主婦、祖父母は農業で生計を立てていました。当時は決して裕福な家ではなかったですが、この写真が残っていることは貧しくもなかったのでしょう。
田といえば、半分は山の中の田(今でいう棚田)、畑は家のまわりに自家用の野菜をつくる程度でした。山林も少なく、かつ道路から随分と離れています。
現存している家は、納屋(この地方では長屋)を私が小学生2年生の頃、母屋を小学5年生のころ父が建てたように記憶しています。(訂正中学3年生でした/2008/3/1記)
←生後7ヶ月
このころ、私たちの村でもテレビが見えるようになりました。テレビを設置しているのは村の電器屋さんでした。
自宅にはまだテレビはなかったのですが学校には視聴覚教室に1台ありました。理科や、社会の授業でみた覚えがあります。電波は萩の送信所から垂直偏波で送られ、アンテナは学校の裏山に立て、数百メートルのフィーダー線が引っ張られていました。
こんな中、一番の記憶は「浅沼委員長刺殺事件」です。突然、臨時ニュースが流れ、刺殺の場面が写されました。政治には興味がなかったのですが、鮮烈な印象が残っています。
やがて、自宅にもテレビを購入し、見られるようになったのですが、NHK総合とNHK教育、山口放送の3チャンネルしか写りません。それも相当画質が悪く「雪が降る」ことだらけでした。
アンテナも門先に立てたり、数百メートル離れた山の頂上に立てていましたが、風が強く吹くと方向が変わり写らなくなるため、その都度直していました。相当の難視聴地域でした。
今の母屋に建てかえる前は、茅葺の屋根でした。今では貴重な家ですが、当時は古びて嫌でした。勝手口から入るとまず、土間に物置、かまどがあり、そのすぐそばに居間兼食事をする板の間、その奥に4畳半の祖父母の間、その横に6畳の上の間(来客の間)、その横に4畳の中の間、一番入り口に父母がいた前の間がありました。今でいえば4LDKの平屋です。
夏になるとときどき食事中に青大将(蛇)が屋根から落ちてきたり、蚊や虫に何度となくさされ悩まされました。また冬はすきま風が入り、寝ている部屋まで雪が降った覚えがあります。
茅葺の屋根の住居はどこか郷愁を誘いますが、中に住んでみると実は大変です。
庭には富裕柿の木があり、夏にはよい木陰ができていました。いつの頃だったか、その柿木に登って遊んでいる途中、枝が折れ、下にあった石で頭を打ったこともありました。当時はここでもみを干していました。