故郷の風景画

小学校入学式

中学校卒業記念写真

新校舎玄関

中学卒業

小学校入学前の記念写真

  私の誕生

    

それから35年後の1996(平成8)年、過疎の村は在校生が少なくなり、福井中学校と統合され、福栄中学校となり、私の卒業した紫福中学校の名前はなくなりました。
 廃校になるその年、同級生が音頭をとり、先生にもお声をかけ、同期会を開催しました。取り壊される校舎の中をみたり、グランドを走ったり、懐かしさでいっぱいでした。
その後もオリンピックが開かれる年に同期会を開催しています。(幹事さんには感謝の気持ちでいっぱいです。)

中学校卒業の記念写真です。
入学のときと同じ場所ですが背景が違っています。ということは私が在学中に新築されています。新築された中に視聴覚教室も玄関すぐ横にありました。
卒業生男子24名、女子13名はそれぞれ就職、進学と分かれていきました。

 一方、絵は好きでしたし、上手でもあったような気がします。
授業中描いた絵を教室の後ろに張り出すわけですが、たいていは金か銀か赤、ときどき無印でした。
多分先生受けがする「良い子の絵」だったのでしょうね。でもその絵は今は一枚も残っていません。家を新築するときにおそらく捨てたのでしょう。

その小学校も平成28年春には統廃合されます。
校庭は一段低いところにあり、運動会のときには砂を掃き採り、裸足で走っていました。運動会で言えば、徒競走はいつもビリでした。クラスでは一番小さく、走るのは苦手でした。ただ障害物競走などはある程度リズム、タイミングで基礎能力不足を補え、ときどきはビリを逃れていたような気がします。でも一度もトップでゴールしたことはありません。

 私は昭和21年、山口県阿武郡紫福村(現:萩市)に生まれました。
父は郵便局員、母は農業兼主婦、祖父母は農業で生計を立てていました。当時は決して裕福な家ではなかったですが、この写真が残っていることは貧しくもなかったのでしょう。
 田といえば、半分は山の中の田(今でいう棚田)、畑は家のまわりに自家用の野菜をつくる程度でした。山林も少なく、かつ道路から随分と離れています。
 現存している家は、納屋(この地方では長屋)を私が小学生2年生の頃、母屋を小学5年生のころ父が建てたように記憶しています。(訂正中学3年生でした/2008/3/1記)
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私の中学校時代

 
自宅から少し近くなって約1kmくらいの小高いところにありました。校庭には大きな楠木が中央にありました。
中学入学も、小学卒業も同じ生徒がそっくり進学しました。
 男子23名、女子14名と少人数でまた3年間過ごしました・

どんな勉強をしたかは忘れましたが、英語は中学からの科目でした。
「I am a boy your a girl」 「This is a pen」いまだに上手に話せません。第一、girlも辞書を引き引き書いています。
クラブ活動はブラスバンドでしたが、こちらもレギュラーにはとうとうなれませんでした。
 私たちの村には幼稚園、保育園はありませんでした。就学前教育は家庭に任せられていました。
 入学時の面接では、「自分の名前がひらかなでかける」「数字の1から10まで順番どおり言える」を聞かれたように記憶しています。
 学校は一学年一クラスの36名でした。私たちの生まれた年は終戦の年で、前後は一学年2クラスありましたが、谷間の私たちは一番少ない年でした。このことは意外とラッキーでした。高校入試も、就職試験も人数が少ないため、随分と有利になっていたように思えます。翌年から「戦後のベビーブーム」でした。
 小学校は自宅から約1.2km離れて、30分かけて歩いて通っていました。木造2階建ての校舎で、戦災にもあっておらず、確か明治時代の建物のように記憶しています。

 

 このころ、私たちの村でもテレビが見えるようになりました。テレビを設置しているのは村の電器屋さんでした。
自宅にはまだテレビはなかったのですが学校には視聴覚教室に1台ありました。理科や、社会の授業でみた覚えがあります。電波は萩の送信所から垂直偏波で送られ、アンテナは学校の裏山に立て、数百メートルのフィーダー線が引っ張られていました。
 こんな中、一番の記憶は「浅沼委員長刺殺事件」です。突然、臨時ニュースが流れ、刺殺の場面が写されました。政治には興味がなかったのですが、鮮烈な印象が残っています。

 やがて、自宅にもテレビを購入し、見られるようになったのですが、NHK総合とNHK教育、山口放送の3チャンネルしか写りません。それも相当画質が悪く「雪が降る」ことだらけでした。
 アンテナも門先に立てたり、数百メートル離れた山の頂上に立てていましたが、風が強く吹くと方向が変わり写らなくなるため、その都度直していました。相当の難視聴地域でした。
 

 
     

私の小学校時代

 
     

今の母屋に建てかえる前は、茅葺の屋根でした。今では貴重な家ですが、当時は古びて嫌でした。勝手口から入るとまず、土間に物置、かまどがあり、そのすぐそばに居間兼食事をする板の間、その奥に4畳半の祖父母の間、その横に6畳の上の間(来客の間)、その横に4畳の中の間、一番入り口に父母がいた前の間がありました。今でいえば4LDKの平屋です。
 夏になるとときどき食事中に青大将(蛇)が屋根から落ちてきたり、蚊や虫に何度となくさされ悩まされました。また冬はすきま風が入り、寝ている部屋まで雪が降った覚えがあります。
 茅葺の屋根の住居はどこか郷愁を誘いますが、中に住んでみると実は大変です。
 庭には富裕柿の木があり、夏にはよい木陰ができていました。いつの頃だったか、その柿木に登って遊んでいる途中、枝が折れ、下にあった石で頭を打ったこともありました。当時はここでもみを干していました。